刹那とクロエ　作：はにわ

　
ーー神楽坂邸。
つい一時間ほど前まで共にしていた地影と炎魅子を、手配した車で家まで送らせ帰した刹那。
夜景が見える大きな浴場で、水花と一日の汗を流した。
そして早めに浴槽から上がり、白色のガウン一枚のみを着込み、首に巻いたタオルで髪を拭う。
元々、誰もが羨むような金髪を濡らす水滴は互いに光を反射しあって、まるで宝石のようだ。

自分の方はそこそこに、まず水花の濡れた髪をタオルで拭き取っていく刹那。
乾かす前から髪が乱れないように丁寧に、毎日の事とはいえ慣れたものである。
また刹那もこの事に関わらず、水花の世話をするのは姉代わりの自分の仕事、と数人いる使用人にも手を出させなかった。

「・・・自分でやる」

「だーめ。
ちゃんと乾かして整えないと、寝て起きた時に酷い寝癖になるのよ？
元々、水花は癖っ毛なんだから」

ドライヤーで水花の髪を乾かして、その後に髪をとかすのも刹那の仕事。
自分の髪の毛はそっちのけである。

最初は刹那に為されるがままだった水花も、最近は自我が芽生えたのか、
刹那が世話を焼くことに口を出すようにもなってきた。

９歳の少女。
その境遇を知ればこそ、刹那は少しずつ成長する水花に嬉しさと寂しさを感じていた。



「ーーお嬢様、よろしいでしょうか」

「あら、蓮華（れんげ）さん、何かしら」

水花の髪をきちんとセットし、今度は自分のをというところで、浴室の外から扉越しに声が聞こえてきた。
刹那は扉も開けないまま声を返す。

「お嬢様にお電話です」

「電話？
こんな時分に、一体どなたかしら」

時は既に夜の９時を回ろうとしていた。
個人の感覚はあろうが、常識的には遅い時間である。

「ーーマナセリア様です」

「クロエ先生からーー？」

それを聞いた刹那は髪を乾かすのを止めて、ようやく浴室から出た。
外で待機していたのはさっき炎魅子に着せていたものと同じ服を着た、三十代半ばの女性。
きりりと引き締まった表情、落ち着き払った態度、雇い主の一人娘を前にしても堂々とした佇まいに貫禄を感じさせる。

両の手の平に、電話の子機を乗せて待機していた『蓮華』という名の使用人。
それを受け取った刹那は、『相手が相手』ということもあり、
水花に湯冷めする前に早く寝床に入るように言い、蓮華にもそれを任せた。

そして子機を手にした刹那は髪を乾かさぬまま、外のベランダに足を踏み出す。
火照る身体に心地よい風が吹く中、刹那は保留を解除した。

「ーー済まないな、こんな時間に」

「いいえ、お気になさらないで、先生。
それでご用件は？」

電話の相手はマナセリア・トゥ・クロエール。
つまり刹那が通うアカデミアの外国から着た教諭。
透矢や真希の担任でもある。

「・・・千歳真希が負けたようだな」

「ーーお耳が早いですのね、先生。
私もついさっき、真希からメールで聞いたところです」

「千歳を破るとは、中々見所はありそうだな」

「・・・ええ。
これで私も去年の『大会』以来、久々のデュエルです。
今から楽しみで仕方がありませんの」

刹那が嬉しそうに笑顔を溢す。

クロエと言えば、ある意味アカデミアでは有名な人物である。
何しろあの特徴的な話し方である。
１度聞けば強い印象として残るだろう。

しかし、刹那が話す『クロエ』は声色こそそうだが、口調にその名残はない。
他の者が聞いたなら、クロエの声に似た誰か、と思うのではなかろうか。

「・・・あまりはしゃぎ過ぎるなよ。
生徒会大戦も、『大会』も、ただの『選抜』の一端でしかない」

「ええ・・・わかっています」

「お前の『勘』を信じて、『計画』の実行を一年ずらしたのだ。
結果的にはそれが良い方向に向かっているがーー我々の『大義』は見失うな」

「はい・・・クロエ先生」

応えながら頷く刹那。
急激に火照った体温が下がったからだろうか、刹那はわずかに身を震わせつつ、
遥か空の向こうに思いを馳せるかのように、見えざる思いを秘めた眼差しを向けていた。