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Ep01「ようこそ デュエルリンクスへ」 作:天2
ふと気付くと少年は街の中にただ立ち尽くしていた。
周りを見回せば、花や木々に囲まれるように噴水があり地面は煉瓦色の石畳。所々にベンチや街灯が配置され、少し離れたところには芝生が敷かれたエリアも見える。
どうやらここは何処かの街中にぽかりと作られた人工のオアシスとも言うべき公園のようだ。全体的によく整備されており綺麗で居心地よさそう。今日が休日であるならば近所の方々の憩いの場として家族連れやお年寄りなどでそれなりに賑わっていることだろう。
だが少年にはまるで見覚えのない場所であり土地だ。
「なんでこんなところに……」
思わず口から漏れた疑問。
自分がなぜここにいるのか、まるっきり分からない。
いや、それ以前に……
「俺は……誰だ……?」
ここにいる理由が思い出せない。どうやってここまで来たのかも思い出せない。どこから来たのかも思い出せない。そもそも自分が何という名前で、どういう人間なのかも思い出せないのだ。
少年は、年の頃は十代半ばといったところ。落ち着きがあり少々大人びた雰囲気はあるが、少なくともまだ少年と形容して差し支えない年齢だ。
顔立ちは割りと整ってはいるが、凡庸の域を出るとは言い難い。身に付けているのは赤いキャップにゴーグル、同じく赤いジャケット姿。なかなか個性的なファッションセンスと言えるが、雑踏に紛れてしまわないという意味では地味な顔立ちを補っていると言えなくもない。
そして左腕には小型のタブレットのようなものを装着している。自分のことは何一つ思い出せないのに、それが何なのかはすぐに分かった。
「デュエルディスク……」
それは『デュエルモンスターズ』というカードゲームを行うために必須のアイテム。起動すればこのタブレットからカードをセットするプレートが展開され、そこにカードを配置することでゲームを進めることになる。
デュエルモンスターズの根幹となるカードの束であるデッキはすでに装填済みのようだ。
その状況から、どうやら自分が記憶喪失というやつらしいことは何となく分かった。しかし記憶を失っても日本人が箸の使い方を忘れてはしまわないように、長年使いなれた物の使い方やそれが何のための物なのかという知識は消えてなくなったりしないらしい。
「これは俺のデュエルディスク。そしてこれが俺のデッキ……」
デュエルディスクからデッキを抜き出し中身を確認してみる。不思議とそれがどんな構築で、どんなタクティクスのもと作られているのか、瞬時に理解することができた。その手に触れる感触まで何故かしっくりくる感じがする。
「間違いない、これは……俺がこの手で組んだ俺のデッキだ。俺が『決闘者(デュエリスト)』だったのは確からしいな」
『決闘者(デュエリスト)』とはデュエルモンスターズで闘うプレイヤーを指す総称だ。
探り出せばデュエルに関する知識は次から次へと頭に浮かんでくる。しかし例えばこれらのカードを何処で手に入れたのか等、ひとたび彼自身に関わることになると、途端に脳内が真っ白になりそれ以上の情報が一切引き出せない。
まるで彼自身に関する情報にのみロックがかかっているようで妙な違和感があるが、しかし記憶喪失の専門家でもなしそれが異常なことなのかどうなのか彼には判断がつかないことだった。
記憶を無くし見ず知らずの土地にいきなり放り出されたという大の大人でもパニックになっておかしくはないこの状況で、少年の心は妙に落ち着いていた。まるでこの程度の窮地は既に何度もくぐり抜けてきているかのように心の波は凪いだままで、冷静に現状の把握に努めている。
辺りをきょろきょろと見回す。
するとすぐそばに公園のほのぼのとした風景の中にあまりに異質な物体を発見して、冷静な彼も流石に小さくギョッとした。
それは彼の背後に鎮座していた。小さく地面から突起しただけの丸い台座からは人工的な青い光が立ち上ぼり、その上にどういう原理なのか分からないがメタリックな機械のリングが垂直に立って浮遊している。ひと一人二人なら立ったまま通れそうな巨大なリング。その中はまるで水面のように波打ち、空間が歪んでいるのか向こう側がはっきりとは透けて見えない。
ただのアートオブジェにはとても思えない。少年の僅かな経験に照らしてそれはSF映画とかに出てくる『ワープゲート』にしか見えなかった。
「なんだよ、これ……」
少なくとも彼の知る常識の範疇では、こんなものを設置している公園などないし、日曜の昼下がりにワープしようと公園に来る人間などいない。
「なんだってこんなもんがここに……?」
もっともな疑問ではあるが、それに答えてくれる人間など居はしなかった。
『人間』は、である。
『ハイ、その質問には私がお答えしますデス!』
不意にその答えは返ってきた。
突然デュエルディスクのディスプレイが何の予備動作もなしに起動すると、まるでにょきっと木でも生えるように“それ”は現れた。
“それ”を一言で表すなら、やはり『バスガイド』という他ないだろう。
少しくせっ毛の赤い髪に、少々幼さが残りつつもどこか蠱惑的な顔立ちの少女。それがどう見てもバスガイドの制服を着てデュエルディスクのディスプレイから生えていた。
「な……え……?」
『私(わたくし)、貴方様のご案内を務めさせて頂きますデス。ガイドAIの『デスガイドちゃん』と申しますデス。これからよろしくお願い致しますデス。』
少年の困惑をよそに身長およそ10センチのその少女はペコリと頭を下げた。頭を上げるとにこりと笑顔を作る。
そして少年の反応を待たずにさらに続ける。
『貴方様の後ろにあるその装置は、この世界では『ゲート』と呼ばれていますデス。外の世界とこちらの世界、またはこのワールドと別のワールドを繋ぐポータルとしての機能を果たしますデス。貴方様もつい今しがたそのゲートからこちらの世界に足を踏み入れられたのデスよ』
先ほどの少年の問いへの答えなのだろう、彼女ーーー『デスガイドちゃん』は矢継ぎ早に説明していく。
しかしあまりに唐突な展開に、流石の少年も何が何やら分からず目を白黒させるしかできない。
「す、すまない、きちんと分かるように説明してくれないか。まず……そうだな……俺は一体誰なんだろうか?」
デスガイドちゃんは自らをガイドAIと名乗った。ガイドと言うからにはある程度こちらの疑問点への回答を持ち合わせているのだろう。とりあえず危険性のある相手というわけでもなさそうなので、少年は現状最も気になっている疑問をまずぶつけてみることにした。
少なくとも自分が誰かは知っておきたい。これからに繋がる質問はそれからでも良い。
だが……
『……は?』
しかしデスガイドちゃんの反応は、びしりとひび割れる勢いで笑顔を固めるというものだった。それは完全に想定外の質問だったことをありありと物語っていた。
『えーと……それは……一体どういう……?』
「俺は一体どこの誰なのか。そう訊いている。自分に関する記憶がないんだ、一切な」
今度困惑するのはデスガイドちゃんの方だった。プロらしく笑顔は崩さないが、その頬を汗が流れる。
『ええーっと……とりあえずプ、プロフィールを表示しますデス』
デスガイドちゃんが慌てて手を振ると、それまで何もなかった眼前の空間にウィンドウが開いた。
驚いて見てみると、それは確かにゲームやSNSで馴染みのあるプロフィール画面だった。名前を筆頭にレベルやランクといった項目がずらりと並ぶ。
『えー、まず貴方様のお名前は……『斯波 遊一(シバ ユウイチ)』様でご登録されているようデスね。お間違いありませんデスか?』
「『斯波……遊一……』」
おそらく自分の名前なのだろうそれを声に出してみる。
発音してみることで何か思い出すかとも思ったが特にそんなこともなく、正直ピンと来ない。
『もし不満でしたら今からでも変更できますデスよ?』
少年の虚ろな反応が気になったのかデスガイドちゃんが心配そうに眉を下げる。
「名前を変更? そんなことができるのか?」
『ハイ、もちろんデス! これはあくまで登録上のお名前で、ゲーム内のHN(ハンドルネーム)みたいなものデスので』
「ゲーム内?」
デスガイドちゃんの言葉の中に引っ掛かる単語を見つけ少年ー-ー『斯波 遊一』は訝しげに聞き返す。
デスガイドちゃんはその反応にきょとんとした表情。どうにも会話が噛み合わない。
「言っただろう、記憶が全く無いんだ。すまないけど、一から全部この今の状況を説明してくれないか?」
『ええっー!?』
ここにきて初めてデスガイドちゃんの笑顔が崩れすっとんきょうな声が上がった。
『記憶喪失!? マジで!? ジョークとかじゃなく!? え、え、なんで!?』
本当にびっくりしたのか先ほどまでの慇懃な口調まで崩れている。こちらが地なのだろう。
『ログイン時に何かトラブルがあった……? うそー、マジでー、なんでー……?』
そんなことをブツブツ呟いてはぬおーと頭を抱えている。本来はなかなかコミカルな性格のようだ。
しばらくそうして悶えていたが、疲れたように我を取り戻すと「んんッ」と咳をし遊一に向き直る。
『じゃあキミはここに来るまでのことを自分のことを含めな~んにも覚えてないと、そういうことでOKデスか?』
それに遊一が頷くと、深くため息をついて眉間を押さえるデスガイドちゃん。
最早口調を取り繕うつもりはなさそうだ。
「それで、説明してもらえるのか、もらえないのか?」
『もちろん説明はするデスよ。それがガイドAIの仕事なので』
そう言うとデスガイドちゃんは少し真面目な顔をして話し始めた。
『驚かないで聞いて欲しいのデスけれど、いまキミがいるここは『デュエルリンクス』っていうゲームの中の世界なんデス』
「ゲームの中の世界……」
そう聞かされても遊一に強い衝撃はない。
それは普通に聞けば突拍子のない話なのだが、これまでのデスガイドちゃんの話の端々から何故かなんとなくそんな気がしていた。
『『デュエルリンクス』は某大企業が開発したVRデュエルゲームなのデス。専用機材である『ニューロン・VR・システム』を装着することで脳に直接VRビジョンを送り、本物と大差ないVR世界を実現させたのデス』
「『デュエルリンクス』……」
『デュエルリンクスではリアル世界とは違い、脳波によってデュエルを行うデス。この世界にいるということはキミもそのプレイヤーの1人なのは確実。キミの場合、おそらくログイン時に何らかのトラブルが生じて脳波に乱れが発生、その結果一時的な記憶障害に陥っているだけではないかと考えるデス。ですから今のキミは自意識の集合体ー-ー謂わば魂の姿であり、本当の肉体はリアル世界でニューロン・VR・システムを装着し寝ている状態にあると思われるデス』
しばらく自分の記憶を探ってみるが、やはりそんなゲームに関わった記憶はない。
『私はデュエルリンクスを始めたばかりのプレイヤーにゲームの進め方や仕様をアドバイスし案内するようプログラミングされたガイドAIなのデス』
そう言ってエヘンと胸を張るデスガイドちゃんを見るに、完全なデマとも思えない。となると本当にここはデュエルリンクスというゲームの作り出したVR空間なのだろう。
「これが現実じゃあなくデータによって作られた疑似世界なのか……」
視覚だけでなく、肌に触れる風の感触や鼻腔をくすぐる花の香りまで、全く現実世界と変わりがない。これが本当にゲーム内ならば、よくできているというレベルの話ではない。とてつもない技術力だと感心する他ない。
『このデュエルリンクスでは五感全てがリアルと寸分違わぬレベルで再現されているのデス。それは味覚や痛覚に至るまで完璧にデスよ』
「味覚までか……」
先ほどのデスガイドちゃんの話では、このゲームは脳に直接情報を送っているという。脳が何かを食べていると完全に誤認しているのならば、ゲーム内の食事で味を感じるというのも理論上不可能ではないのだろう。
本当に凄まじい再限度だ。
デスガイドちゃんの説明がなければ、ただ単に知らない土地に連れて来られただけにしか思えない。実際にデュエルディスクから立体的に生えているデスガイドちゃんの姿や、目の前の空間に浮かんで開いているゲーム画面的なウィンドウを見ていなければその話すら信じられなかったかもしれない。
そこでふとあることに気付いてデスガイドちゃんに訊いてみる。
「……このウィンドウ、俺が直接操作できるのか?」
『ハイ、タッチパネルの要領で……』
指で触れてみると、なるほどまるで液晶画面に触っているのと変わらない感触がある。スワイプすれば画面が流れ、項目をタップすれば新しい画面が開く。
その要領でポチポチとウィンドウを操作していく。
デスガイドちゃんは頭にはてなマークを浮かべながらこちらを見つめてくる。
『あのぅ……? どうしたのデス?』
「いや、さっきの話を聞いてもしかしたらログアウトしてリアルに戻れば記憶が戻るんじゃないかと思ってね」
遊一は画面を適当に操作しながらログアウトボタンを探していく。
デスガイドちゃんは『ああ……』と得心したように頷いた。
『確かに肉体に戻れば記憶も取り戻せるかもデスねー。ただし……』
しかしそこでデスガイドちゃんは顔に小悪魔的な笑みを浮かべた。
『……ログアウトできれば、デスが♪』
「なに?」
突然雰囲気を一変させたデスガイドちゃんに遊一が訝しげな視線を向ける。
その視線を受けても彼女に悪びれる様子はない。
『メニューをいくら探してもログアウトのボタンはありませんデスよ。それがこの世界の仕様デスから』
「どういうことだ?」
『キミは記憶喪失だから知らないかもデスが、ラノベとか投稿系小説では割りとありふれたジャンルなんデスよ? “ゲーム世界に閉じ込められた”系って。知りません? SA○とか○グ・ホライズンとか』
後半の固有名詞は分からないが、彼女が何を言っているのかは理解できた。
この世界には初めからログアウト方法が設定されていないのだ。一度ログインしたが最後この世界から抜け出す方法はない。つまり遊一の意識は既にこの世界に囚われ閉じ込められていると、彼女はそう言っているのだ。
「何のためにそんなことを?」
『理解が早いデスね。それに理解して尚そんな平静を保っていられるなんて、なかなかの精神力の持ち主デス。ふつーパニクるとこデスよ、ここ。でもその質問には答えられません。禁則事項なのデス。どうしても知りたければ、この世界を作った当人達にでも問い合わせてみてはいかがデスか?』
デスガイドちゃんは変わらぬ笑みを浮かべている。しかし目の奥で揺れているのは捕らえた獲物の抵抗を楽しむような嗜虐的な光。
「なら質問を変えよう。この世界から抜け出す方法は本当にないのか?」
デスガイドちゃんが目を少しだけ大きくする。
『クールかつクレバーなプレイヤーは好きデスよ。この世界から抜け出す方法は無いわけではありませんデス。とても困難デスが』
挑むようにデスガイドちゃんが遊一を見上げる。見開かれた瞳には、今度は期待の色が見えた。
遊一は無言で話の先を促す。
『それはこの世界の“王”になることデス』
「王……?」
『ハイ。キミはー-ーいえ、この世界に閉じ込められている全てのプレイヤーは“王”になることでどんな願い事も叶えることができるのデス。そこでリアル世界への帰還をキミが望めば、元の世界に戻ることはできますデスよ』
遊一は無言でデスガイドちゃんを見つめる。
先ほどまでただのコミカルな性格のサポートプログラムくらいにしか思っていなかったのに、彼女への警戒心は一気に高まっていた。彼女は決して味方ではないのだ。
だが一方で、彼女が遊一の当面のアドバイザーであることは間違いない。今は彼女の言葉を信じるしかない。
「どうやったらその王様ってやつになれる?」
遊一がそう訊くと、デスガイドちゃんは嬉しそうにますます笑みを深めていく。
そして拳を上げて遊一を指した。
『それはもちろん“デュエル”で♪』
この世界がデュエルゲームの中だと言うのなら、それは至極当然の流れだろう。
『デュエルゲームの“王”』が『デュエルの“王”』なのは当たり前と言えば当たり前だ。この世界で誰よりも強い者が“王”となる。
「分かりやすくて良いな」
『でしょう?』
遊一は記憶を取り戻したい。
そこに執着する何かがあるわけではない。自分が何者なのか知りたいだけだ。
「とりあえず目標は決まったな。その“王”ってやつになってみるか」
そのためにその“王”とやらになる必要があるのなら、とりあえずそれを目指すことにしよう。
遊一はこの世界で生きることを楽観視しているわけでも悲観しているわけでもない。
だが“過去”の全てを失った彼には、目標は必要なものだった。思い出を拠り所にすることのできない彼には前を向く理由がいる。右も左も分からない“現在”に放り出され、そんな不安定な足場で地団駄を踏んでいるわけにはいかないのだ。いつ崩れるとも知れない“現在”に停滞するよりも、“未来”の希望を目指して進む方がずっと良い。目標とは“未来”。“未来”は踏み出す勇気を与えてくれる。生きる活力を与えてくれる。
遊一は“王”になるという“未来”へ踏み出すことを決めた。
そんな遊一をデスガイドちゃんは両手を広げて歓迎する。
その笑みは最早少女のそれではない。蠱惑的で扇情的な、それでいて歓喜に打ち震えるような妖艶な笑み。
今にも遊一を抱き締めんばかりに手を広げ、濡れた唇を開く。
「ようこそ、デュエルリンクスへ♪」
周りを見回せば、花や木々に囲まれるように噴水があり地面は煉瓦色の石畳。所々にベンチや街灯が配置され、少し離れたところには芝生が敷かれたエリアも見える。
どうやらここは何処かの街中にぽかりと作られた人工のオアシスとも言うべき公園のようだ。全体的によく整備されており綺麗で居心地よさそう。今日が休日であるならば近所の方々の憩いの場として家族連れやお年寄りなどでそれなりに賑わっていることだろう。
だが少年にはまるで見覚えのない場所であり土地だ。
「なんでこんなところに……」
思わず口から漏れた疑問。
自分がなぜここにいるのか、まるっきり分からない。
いや、それ以前に……
「俺は……誰だ……?」
ここにいる理由が思い出せない。どうやってここまで来たのかも思い出せない。どこから来たのかも思い出せない。そもそも自分が何という名前で、どういう人間なのかも思い出せないのだ。
少年は、年の頃は十代半ばといったところ。落ち着きがあり少々大人びた雰囲気はあるが、少なくともまだ少年と形容して差し支えない年齢だ。
顔立ちは割りと整ってはいるが、凡庸の域を出るとは言い難い。身に付けているのは赤いキャップにゴーグル、同じく赤いジャケット姿。なかなか個性的なファッションセンスと言えるが、雑踏に紛れてしまわないという意味では地味な顔立ちを補っていると言えなくもない。
そして左腕には小型のタブレットのようなものを装着している。自分のことは何一つ思い出せないのに、それが何なのかはすぐに分かった。
「デュエルディスク……」
それは『デュエルモンスターズ』というカードゲームを行うために必須のアイテム。起動すればこのタブレットからカードをセットするプレートが展開され、そこにカードを配置することでゲームを進めることになる。
デュエルモンスターズの根幹となるカードの束であるデッキはすでに装填済みのようだ。
その状況から、どうやら自分が記憶喪失というやつらしいことは何となく分かった。しかし記憶を失っても日本人が箸の使い方を忘れてはしまわないように、長年使いなれた物の使い方やそれが何のための物なのかという知識は消えてなくなったりしないらしい。
「これは俺のデュエルディスク。そしてこれが俺のデッキ……」
デュエルディスクからデッキを抜き出し中身を確認してみる。不思議とそれがどんな構築で、どんなタクティクスのもと作られているのか、瞬時に理解することができた。その手に触れる感触まで何故かしっくりくる感じがする。
「間違いない、これは……俺がこの手で組んだ俺のデッキだ。俺が『決闘者(デュエリスト)』だったのは確からしいな」
『決闘者(デュエリスト)』とはデュエルモンスターズで闘うプレイヤーを指す総称だ。
探り出せばデュエルに関する知識は次から次へと頭に浮かんでくる。しかし例えばこれらのカードを何処で手に入れたのか等、ひとたび彼自身に関わることになると、途端に脳内が真っ白になりそれ以上の情報が一切引き出せない。
まるで彼自身に関する情報にのみロックがかかっているようで妙な違和感があるが、しかし記憶喪失の専門家でもなしそれが異常なことなのかどうなのか彼には判断がつかないことだった。
記憶を無くし見ず知らずの土地にいきなり放り出されたという大の大人でもパニックになっておかしくはないこの状況で、少年の心は妙に落ち着いていた。まるでこの程度の窮地は既に何度もくぐり抜けてきているかのように心の波は凪いだままで、冷静に現状の把握に努めている。
辺りをきょろきょろと見回す。
するとすぐそばに公園のほのぼのとした風景の中にあまりに異質な物体を発見して、冷静な彼も流石に小さくギョッとした。
それは彼の背後に鎮座していた。小さく地面から突起しただけの丸い台座からは人工的な青い光が立ち上ぼり、その上にどういう原理なのか分からないがメタリックな機械のリングが垂直に立って浮遊している。ひと一人二人なら立ったまま通れそうな巨大なリング。その中はまるで水面のように波打ち、空間が歪んでいるのか向こう側がはっきりとは透けて見えない。
ただのアートオブジェにはとても思えない。少年の僅かな経験に照らしてそれはSF映画とかに出てくる『ワープゲート』にしか見えなかった。
「なんだよ、これ……」
少なくとも彼の知る常識の範疇では、こんなものを設置している公園などないし、日曜の昼下がりにワープしようと公園に来る人間などいない。
「なんだってこんなもんがここに……?」
もっともな疑問ではあるが、それに答えてくれる人間など居はしなかった。
『人間』は、である。
『ハイ、その質問には私がお答えしますデス!』
不意にその答えは返ってきた。
突然デュエルディスクのディスプレイが何の予備動作もなしに起動すると、まるでにょきっと木でも生えるように“それ”は現れた。
“それ”を一言で表すなら、やはり『バスガイド』という他ないだろう。
少しくせっ毛の赤い髪に、少々幼さが残りつつもどこか蠱惑的な顔立ちの少女。それがどう見てもバスガイドの制服を着てデュエルディスクのディスプレイから生えていた。
「な……え……?」
『私(わたくし)、貴方様のご案内を務めさせて頂きますデス。ガイドAIの『デスガイドちゃん』と申しますデス。これからよろしくお願い致しますデス。』
少年の困惑をよそに身長およそ10センチのその少女はペコリと頭を下げた。頭を上げるとにこりと笑顔を作る。
そして少年の反応を待たずにさらに続ける。
『貴方様の後ろにあるその装置は、この世界では『ゲート』と呼ばれていますデス。外の世界とこちらの世界、またはこのワールドと別のワールドを繋ぐポータルとしての機能を果たしますデス。貴方様もつい今しがたそのゲートからこちらの世界に足を踏み入れられたのデスよ』
先ほどの少年の問いへの答えなのだろう、彼女ーーー『デスガイドちゃん』は矢継ぎ早に説明していく。
しかしあまりに唐突な展開に、流石の少年も何が何やら分からず目を白黒させるしかできない。
「す、すまない、きちんと分かるように説明してくれないか。まず……そうだな……俺は一体誰なんだろうか?」
デスガイドちゃんは自らをガイドAIと名乗った。ガイドと言うからにはある程度こちらの疑問点への回答を持ち合わせているのだろう。とりあえず危険性のある相手というわけでもなさそうなので、少年は現状最も気になっている疑問をまずぶつけてみることにした。
少なくとも自分が誰かは知っておきたい。これからに繋がる質問はそれからでも良い。
だが……
『……は?』
しかしデスガイドちゃんの反応は、びしりとひび割れる勢いで笑顔を固めるというものだった。それは完全に想定外の質問だったことをありありと物語っていた。
『えーと……それは……一体どういう……?』
「俺は一体どこの誰なのか。そう訊いている。自分に関する記憶がないんだ、一切な」
今度困惑するのはデスガイドちゃんの方だった。プロらしく笑顔は崩さないが、その頬を汗が流れる。
『ええーっと……とりあえずプ、プロフィールを表示しますデス』
デスガイドちゃんが慌てて手を振ると、それまで何もなかった眼前の空間にウィンドウが開いた。
驚いて見てみると、それは確かにゲームやSNSで馴染みのあるプロフィール画面だった。名前を筆頭にレベルやランクといった項目がずらりと並ぶ。
『えー、まず貴方様のお名前は……『斯波 遊一(シバ ユウイチ)』様でご登録されているようデスね。お間違いありませんデスか?』
「『斯波……遊一……』」
おそらく自分の名前なのだろうそれを声に出してみる。
発音してみることで何か思い出すかとも思ったが特にそんなこともなく、正直ピンと来ない。
『もし不満でしたら今からでも変更できますデスよ?』
少年の虚ろな反応が気になったのかデスガイドちゃんが心配そうに眉を下げる。
「名前を変更? そんなことができるのか?」
『ハイ、もちろんデス! これはあくまで登録上のお名前で、ゲーム内のHN(ハンドルネーム)みたいなものデスので』
「ゲーム内?」
デスガイドちゃんの言葉の中に引っ掛かる単語を見つけ少年ー-ー『斯波 遊一』は訝しげに聞き返す。
デスガイドちゃんはその反応にきょとんとした表情。どうにも会話が噛み合わない。
「言っただろう、記憶が全く無いんだ。すまないけど、一から全部この今の状況を説明してくれないか?」
『ええっー!?』
ここにきて初めてデスガイドちゃんの笑顔が崩れすっとんきょうな声が上がった。
『記憶喪失!? マジで!? ジョークとかじゃなく!? え、え、なんで!?』
本当にびっくりしたのか先ほどまでの慇懃な口調まで崩れている。こちらが地なのだろう。
『ログイン時に何かトラブルがあった……? うそー、マジでー、なんでー……?』
そんなことをブツブツ呟いてはぬおーと頭を抱えている。本来はなかなかコミカルな性格のようだ。
しばらくそうして悶えていたが、疲れたように我を取り戻すと「んんッ」と咳をし遊一に向き直る。
『じゃあキミはここに来るまでのことを自分のことを含めな~んにも覚えてないと、そういうことでOKデスか?』
それに遊一が頷くと、深くため息をついて眉間を押さえるデスガイドちゃん。
最早口調を取り繕うつもりはなさそうだ。
「それで、説明してもらえるのか、もらえないのか?」
『もちろん説明はするデスよ。それがガイドAIの仕事なので』
そう言うとデスガイドちゃんは少し真面目な顔をして話し始めた。
『驚かないで聞いて欲しいのデスけれど、いまキミがいるここは『デュエルリンクス』っていうゲームの中の世界なんデス』
「ゲームの中の世界……」
そう聞かされても遊一に強い衝撃はない。
それは普通に聞けば突拍子のない話なのだが、これまでのデスガイドちゃんの話の端々から何故かなんとなくそんな気がしていた。
『『デュエルリンクス』は某大企業が開発したVRデュエルゲームなのデス。専用機材である『ニューロン・VR・システム』を装着することで脳に直接VRビジョンを送り、本物と大差ないVR世界を実現させたのデス』
「『デュエルリンクス』……」
『デュエルリンクスではリアル世界とは違い、脳波によってデュエルを行うデス。この世界にいるということはキミもそのプレイヤーの1人なのは確実。キミの場合、おそらくログイン時に何らかのトラブルが生じて脳波に乱れが発生、その結果一時的な記憶障害に陥っているだけではないかと考えるデス。ですから今のキミは自意識の集合体ー-ー謂わば魂の姿であり、本当の肉体はリアル世界でニューロン・VR・システムを装着し寝ている状態にあると思われるデス』
しばらく自分の記憶を探ってみるが、やはりそんなゲームに関わった記憶はない。
『私はデュエルリンクスを始めたばかりのプレイヤーにゲームの進め方や仕様をアドバイスし案内するようプログラミングされたガイドAIなのデス』
そう言ってエヘンと胸を張るデスガイドちゃんを見るに、完全なデマとも思えない。となると本当にここはデュエルリンクスというゲームの作り出したVR空間なのだろう。
「これが現実じゃあなくデータによって作られた疑似世界なのか……」
視覚だけでなく、肌に触れる風の感触や鼻腔をくすぐる花の香りまで、全く現実世界と変わりがない。これが本当にゲーム内ならば、よくできているというレベルの話ではない。とてつもない技術力だと感心する他ない。
『このデュエルリンクスでは五感全てがリアルと寸分違わぬレベルで再現されているのデス。それは味覚や痛覚に至るまで完璧にデスよ』
「味覚までか……」
先ほどのデスガイドちゃんの話では、このゲームは脳に直接情報を送っているという。脳が何かを食べていると完全に誤認しているのならば、ゲーム内の食事で味を感じるというのも理論上不可能ではないのだろう。
本当に凄まじい再限度だ。
デスガイドちゃんの説明がなければ、ただ単に知らない土地に連れて来られただけにしか思えない。実際にデュエルディスクから立体的に生えているデスガイドちゃんの姿や、目の前の空間に浮かんで開いているゲーム画面的なウィンドウを見ていなければその話すら信じられなかったかもしれない。
そこでふとあることに気付いてデスガイドちゃんに訊いてみる。
「……このウィンドウ、俺が直接操作できるのか?」
『ハイ、タッチパネルの要領で……』
指で触れてみると、なるほどまるで液晶画面に触っているのと変わらない感触がある。スワイプすれば画面が流れ、項目をタップすれば新しい画面が開く。
その要領でポチポチとウィンドウを操作していく。
デスガイドちゃんは頭にはてなマークを浮かべながらこちらを見つめてくる。
『あのぅ……? どうしたのデス?』
「いや、さっきの話を聞いてもしかしたらログアウトしてリアルに戻れば記憶が戻るんじゃないかと思ってね」
遊一は画面を適当に操作しながらログアウトボタンを探していく。
デスガイドちゃんは『ああ……』と得心したように頷いた。
『確かに肉体に戻れば記憶も取り戻せるかもデスねー。ただし……』
しかしそこでデスガイドちゃんは顔に小悪魔的な笑みを浮かべた。
『……ログアウトできれば、デスが♪』
「なに?」
突然雰囲気を一変させたデスガイドちゃんに遊一が訝しげな視線を向ける。
その視線を受けても彼女に悪びれる様子はない。
『メニューをいくら探してもログアウトのボタンはありませんデスよ。それがこの世界の仕様デスから』
「どういうことだ?」
『キミは記憶喪失だから知らないかもデスが、ラノベとか投稿系小説では割りとありふれたジャンルなんデスよ? “ゲーム世界に閉じ込められた”系って。知りません? SA○とか○グ・ホライズンとか』
後半の固有名詞は分からないが、彼女が何を言っているのかは理解できた。
この世界には初めからログアウト方法が設定されていないのだ。一度ログインしたが最後この世界から抜け出す方法はない。つまり遊一の意識は既にこの世界に囚われ閉じ込められていると、彼女はそう言っているのだ。
「何のためにそんなことを?」
『理解が早いデスね。それに理解して尚そんな平静を保っていられるなんて、なかなかの精神力の持ち主デス。ふつーパニクるとこデスよ、ここ。でもその質問には答えられません。禁則事項なのデス。どうしても知りたければ、この世界を作った当人達にでも問い合わせてみてはいかがデスか?』
デスガイドちゃんは変わらぬ笑みを浮かべている。しかし目の奥で揺れているのは捕らえた獲物の抵抗を楽しむような嗜虐的な光。
「なら質問を変えよう。この世界から抜け出す方法は本当にないのか?」
デスガイドちゃんが目を少しだけ大きくする。
『クールかつクレバーなプレイヤーは好きデスよ。この世界から抜け出す方法は無いわけではありませんデス。とても困難デスが』
挑むようにデスガイドちゃんが遊一を見上げる。見開かれた瞳には、今度は期待の色が見えた。
遊一は無言で話の先を促す。
『それはこの世界の“王”になることデス』
「王……?」
『ハイ。キミはー-ーいえ、この世界に閉じ込められている全てのプレイヤーは“王”になることでどんな願い事も叶えることができるのデス。そこでリアル世界への帰還をキミが望めば、元の世界に戻ることはできますデスよ』
遊一は無言でデスガイドちゃんを見つめる。
先ほどまでただのコミカルな性格のサポートプログラムくらいにしか思っていなかったのに、彼女への警戒心は一気に高まっていた。彼女は決して味方ではないのだ。
だが一方で、彼女が遊一の当面のアドバイザーであることは間違いない。今は彼女の言葉を信じるしかない。
「どうやったらその王様ってやつになれる?」
遊一がそう訊くと、デスガイドちゃんは嬉しそうにますます笑みを深めていく。
そして拳を上げて遊一を指した。
『それはもちろん“デュエル”で♪』
この世界がデュエルゲームの中だと言うのなら、それは至極当然の流れだろう。
『デュエルゲームの“王”』が『デュエルの“王”』なのは当たり前と言えば当たり前だ。この世界で誰よりも強い者が“王”となる。
「分かりやすくて良いな」
『でしょう?』
遊一は記憶を取り戻したい。
そこに執着する何かがあるわけではない。自分が何者なのか知りたいだけだ。
「とりあえず目標は決まったな。その“王”ってやつになってみるか」
そのためにその“王”とやらになる必要があるのなら、とりあえずそれを目指すことにしよう。
遊一はこの世界で生きることを楽観視しているわけでも悲観しているわけでもない。
だが“過去”の全てを失った彼には、目標は必要なものだった。思い出を拠り所にすることのできない彼には前を向く理由がいる。右も左も分からない“現在”に放り出され、そんな不安定な足場で地団駄を踏んでいるわけにはいかないのだ。いつ崩れるとも知れない“現在”に停滞するよりも、“未来”の希望を目指して進む方がずっと良い。目標とは“未来”。“未来”は踏み出す勇気を与えてくれる。生きる活力を与えてくれる。
遊一は“王”になるという“未来”へ踏み出すことを決めた。
そんな遊一をデスガイドちゃんは両手を広げて歓迎する。
その笑みは最早少女のそれではない。蠱惑的で扇情的な、それでいて歓喜に打ち震えるような妖艶な笑み。
今にも遊一を抱き締めんばかりに手を広げ、濡れた唇を開く。
「ようこそ、デュエルリンクスへ♪」
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123 | Ep01「ようこそ デュエルリンクスへ」 | 932 | 0 | 2020-01-05 | - |
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